その常識、おかしいでしょ?

タタナカです。現代のタブーや、よく考えるとおかしい常識を批判したいです。

差別の心は絶対になくなりません

差別ってなんですか?

差別をwikipediaで調べると下のような説明が出てきます。

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差別(さべつ)とは元来、差をつけて区別することであるが、社会学においては特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為を意味する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」
としている。
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よく分からないので、身近に起きている差別行為を言葉で説明すると「人を生まれや見た目で判断し、その判断に伴った負の行動を起こす」ことですね。

wikipediaの引用に「除外行為や拒否行為」とあるので、上記の場合も「負の行動」に限定したのですが、それはおかしいですよね。

誰かを見た目で判断して「負の行動」と「正の行動」をとる場合、「正の行動」は差別にならないとされていますが、「正の行動」をしてもらえなかった側からしてみれば、立派な差別ですね。

だから、もっと意味を狭めて以下のようにしましょう。

「差別とは人を生まれや見た目で判断し、その判断に伴った行動を起こす」

差別の心は根深い

差別自体は行動を起こさなければ、差別行為にはならないのですが、差別の心はもっと根深いのは容易に分かりますね。

だって、生まれや見た目で、特に見た目では「第一印象」という単語があるくらい、人間にとっては普通の事象なのに、その何かしらの印象を受けた時点でもはや「差別の心」を抱いていることになりますよね。

つまり、差別の心をなくすことは不可能なんです。

パッと見で誰かのことを「いいなー」と思ったら、それはもはや差別の心を持っているのです。

差別の心は仕方ない

まとめると、今は「差別の心と差別の行動」両方よくないという認識が一般的ですが、「差別の心自体は仕方ない」という認識に変えるべきです。
そうすれば、おのずと焦点は「差別の行動」に絞られてくるからです。

例えば、差別主義者が差別行為をした後で「だって、みんなもそう思ってたでしょ?」というようなことを言った場合に、実際に同じことを思っていた人は、なぜか差別主義者を責めることができなくなってしまいますよね。

「差別の心と差別の行動」を切り分けて考えることができれば、同じことを思っていようが毅然とした態度で差別主義者を批判することができます。

問題は差別の行動であって、心の方は人間である限り仕方ないのです。


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